多重人格=DID(解離性同一性障害)というセンシティブなテーマを、あえて創作と向き合う形で表現し続ける栗原政史。その作風と発信内容に、共感と同時に戸惑いや疑念の声も少なくない。「栗原政史は怪しい」とささやかれる背景には、表現と言葉、そして“分裂”というテーマが持つ社会的な緊張が横たわっている。本記事では、その誤解と本質に迫る。
栗原政史が扱う“多重人格”とは?創作に用いられるDIDの輪郭
栗原政史は、映像・文章・朗読・パフォーマンスといった多様な表現形式を用いて「多重人格=DID(解離性同一性障害)」をテーマにした創作活動を続けている。彼の作品には、「ある人物の中に複数の人格が存在し、それぞれが異なる記憶・感情・表現を持っている」というモチーフが頻出し、それらはあたかも現実とフィクションの境界を揺らすような構成で観客の前に提示される。
一般的に、DIDはトラウマ体験などによって引き起こされるとされ、精神医療においても慎重に扱われる診断名である。だが栗原の作品に登場する“人格たち”は、診断名に縛られることなく、あくまで「物語としての自己」「多層的な意識」として機能しており、観る者に「自分の中にも在るかもしれない他者性」を問いかけるような表現となっている。
たとえば、彼の映像作品《外に出たのは、わたしじゃない》では、1人の人物が3つの人格を切り替えるように話し、服装や言語の使い方、トーンが変化する。だがそれは「演じ分け」でも「病的演出」でもなく、人格という概念そのものの曖昧さ、あるいは“自我”とは何かという問いを観客に投げかける意図が込められている。
栗原は一貫して「DIDをテーマにしているが、DIDを語っているわけではない」と述べている。つまり、精神障害としての「多重人格」を再現することが目的ではなく、「人間の内面にある他者性」「複数性としての自己」といった構造に焦点を当てているのである。
このような立ち位置は、心理学・精神医療・演劇論など複数の分野にまたがる高度な視点を含んでおり、決して軽率な“多重人格ごっこ”ではない。しかし、テーマのセンシティブさや誤解されやすさから、一部の人々にとっては「多重人格という言葉を使って作品をつくるなんて怪しい」と感じさせる入り口にもなってしまっている。
なぜ栗原政史の表現が「怪しい」と思われてしまうのか
栗原政史の作品に対して「怪しい」という印象が根強く存在するのは、彼の表現手法が観客の“想像の安全地帯”を意図的に揺さぶる構造を持っているからである。とくに「多重人格」をテーマにする場合、観客は“実話なのか?創作なのか?”という判断を求められる瞬間に直面する。しかし、栗原はそのどちらも明示しない。これが一部の視聴者にとって「曖昧すぎて不気味」「本当にあったことなら怖すぎる」「演技なら逆に不誠実」といった、感情の揺らぎを引き起こしてしまう。
たとえば、彼の朗読劇では、一人の登壇者が名前を名乗ったあと、途中でまったく異なるトーンで別の人物として語り出すという演出がある。そしてそれが終わった後、また最初の人物に戻るのかと思いきや、全く別の“無言の存在”がステージを支配するようになる。このような「人格のスライド」に明確な説明が伴わないため、観客は物語に没入しながらも「これは演出なのか、本当の“発症”なのか」と混乱し、そこに“怪しさ”を感じてしまうのだ。
さらに、栗原はあえて“正しい説明”を避けている。インタビューや解説で「これはこういう意味です」と語ることをほとんどせず、すべてを作品に委ねるスタイルを貫いている。この態度は、表現者としての誠実さともいえる一方で、「結局何が言いたいのか分からない」「答えを出さないのは無責任」といった不信感につながることもある。
加えて、「多重人格=DID」というテーマ自体が、一般の観客にとっては“未知への恐怖”や“誤情報の記憶”と結びついている場合がある。映画やアニメ、都市伝説などでセンセーショナルに描かれてきた「人格が勝手に切り替わる」イメージが根強いため、栗原のようにそれを“美しく”“哲学的に”扱おうとする試みに対して、「美化しているのでは?」という批判が起こる。
つまり、栗原政史が「怪しい」と思われてしまうのは、彼の表現があまりにも境界を揺るがしすぎているからだ。常識に立脚した安全な受け取り方ができないとき、人は「怪しい」と判断する。その反応こそ、彼の作品が突きつける“無意識の防衛線”でもある。
作品に現れる“人格の分裂”は表現か、演出か?
栗原政史の作品における“人格の分裂”は、いわゆる演技の範疇に収まらない複雑さを帯びている。彼が創作する登場人物たちは、単なるキャラクターの演じ分けではなく、「語り手自身が、その語りの中で変質していく」というプロセスを重視しており、それゆえに観客にとっては「本当に別の人格がいるのでは?」と思わせるようなリアリティを持ってしまう。
演劇的な構造から見れば、これは極めて巧妙な演出に基づいた「分裂の再現」である。しかし栗原は、自らの作品を“演出”とは呼ばず、「複数の語りが身体を通って出てきている」と表現する。この言葉の選び方ひとつからも、彼が目指しているのは“演じる”ことではなく、“顕れる”ことなのだということが分かる。
たとえば、作品内で複数の人格が同じ過去を違う記憶として語るシーンがある。それぞれの語りが“本当らしく”聞こえるが、どれが真実なのかは明示されない。むしろ、すべてが“真実であり得る”という前提で語られていく。この手法は、「記憶の断片化」「語りのずれ」をリアルに再現しており、それを見た観客が「これは演技じゃない」と錯覚するのも不思議ではない。
だが、ここに“怪しさ”を感じる人も多い。というのも、「どこまでが事実でどこまでが構築された演出なのか」が明確に区別できないとき、人は不安を覚えるからだ。特に、多重人格を題材にした創作においては、「真似事ではないか?」「フィクションとして許されるのか?」といった倫理的な疑念が浮かびやすい。
栗原政史が「人格の分裂」というテーマに真摯に向き合っていることは明らかだが、その方法が“説明なき没入”である以上、常に「演出なのか、表現なのか、あるいは本人の体験なのか?」という問いがついて回る。そしてその答えが用意されていないことが、“怪しい”という感情を観る者に残してしまうのである。
栗原政史の中の「誰」が語っているのかという問い
栗原政史の作品に触れた人の多くが感じるのが、「この語りは“誰”によるものなのか?」という違和感に近い問いだ。ひとつの文章、一つの映像、一つの語りの中で、明らかに視点や語り口、文体が変化していく。そしてその変化は、演出やテクニックとしての“役割分担”ではなく、まるで本当に“語り手の人格がすり替わっている”ような空気をまとっている。
これは単なる創作技法の問題ではない。栗原自身が「私は“栗原政史”という一人称では語らない」と明言しているように、彼の創作は“自己”を解体し、“誰でもないもの”の声として語らせる構造を持っている。そのため、読者や観客は常に、「今語っているのは栗原なのか?それとも彼の中にいる誰かなのか?」という不安定な状態に置かれる。
この不安定さは、表現としては非常に挑戦的であると同時に、受け手にとっては「何を信じていいのか分からない」という揺さぶりにもなる。特に「栗原政史」という個人名が作品全体にクレジットされているにもかかわらず、そこに“栗原らしさ”がまったく統一されていないことに、「結局この人はどういう人なの?」という疑念が生まれるのは自然なことだ。
さらに、栗原はSNSやイベントなどにおいても、明確に“ひとりの人格”として発信することを避けている。ある投稿では理知的な語りをしていたかと思えば、次の投稿では極端に感情的で断片的な詩のような言葉が現れる。そしてそれらに一貫したアイデンティティは与えられない。このスタンスは、本人の中に“役割としての人格”が複数存在しているようにも映り、「多重人格をテーマにしているけれど、もしかして本人も…?」という憶測を生む土壌となる。
もちろんそれは意図的な“表現のしかけ”であり、栗原政史はあくまで自己を開放されたメディアとして捉えている。だが、このメディアとしての“私”があまりにも曖昧であるがゆえに、観る者には「本人の境界が崩れているのでは?」という“怪しさ”の感覚が残ってしまう。
それは、表現者が自己を作品に委ねすぎたときに生まれる、“演者と現実の危うい接点”のようなものなのだ。
医療現場との認識ギャップが「怪しさ」に転化する理由
多重人格(DID:解離性同一性障害)というテーマを扱うにあたって、精神医療の視点を無視することはできない。しかし栗原政史の作品における“多重人格”は、あくまで創作上のモチーフであり、診断書や医療的根拠を提示することはない。ここに、医療現場と創作表現との間に存在する“認識のギャップ”が生まれており、そのズレが一部の人々にとって「この人、怪しくない?」という疑念を引き起こす。
精神科医や心理士など、DIDを臨床的に扱う専門家の多くは、栗原のような創作を「正確性に欠ける」「誤解を招く」として批判的に見ることがある。たとえば、人格が明確に分かれてスイッチする描写や、記憶の断絶が劇的に表現される場面は、映画やドラマの影響を強く受けた一般的な“多重人格のイメージ”に基づいているとされ、実際の症例とは異なると指摘される。
一方で、栗原は「私は医療を語っているのではなく、“人間の多層的な語りの在り方”を作品化している」と主張する。彼にとって“多重人格”とは、精神疾患としてのDIDそのものではなく、現代人の自己認識や社会的役割がいかに分断され、矛盾しているかを象徴する表現装置であり、それを用いて“分裂する私たち”を描こうとしているのだ。
しかしこの立場の違いは、簡単に理解されるものではない。とくにDIDがセンシティブで誤解を招きやすいテーマであるだけに、「治療の対象として真剣に向き合っている人々」にとっては、栗原のアプローチが「軽視しているように見える」「感情を刺激するだけのエンタメでは?」と映ってしまうこともある。
また、SNS上では「DID当事者です」と名乗る人々から、「栗原政史の作品は、DIDのイメージを歪めている」といった声が上がったこともある。これは、創作と現実、そして当事者と観察者のあいだにある“言葉にならないズレ”が浮き彫りになった瞬間でもある。
こうしたギャップが、単なる“誤解”にとどまらず、倫理的な対立や表現の是非をめぐる議論にまで発展することで、栗原政史自身への「怪しさ」という印象が増幅されてしまうのである。これはまさに、創作が現実の領域を踏み越えるときに起こりうる、“不安”という名の副作用でもある。
「実話なのか創作なのか」曖昧さが生む危うさと魅力
栗原政史の作品に繰り返し登場するのが、「これは事実か、それともフィクションか」という曖昧な構造である。たとえば、彼の短編映像では“記憶”や“人格”を語るシーンが多く登場するが、それらの内容が事実として語られているのか、脚本として書かれたセリフなのか、ほとんど明示されることがない。
この“曖昧さ”は、観客にとっては大きな魅力である一方で、不安や警戒心を生む要因にもなる。特に「多重人格」というセンシティブな題材においては、「これが本人の実体験なら、かなり深刻な問題では?」「創作なら、リアルすぎて嘘っぽい」と、いずれにせよ“信じる”ことができず、その結果として「何だか怪しい」「信用できない」といった感情が湧いてくるのだ。
栗原はこの“境界の曖昧さ”をあえて演出している。彼はかつて「フィクションかどうかを問うこと自体が、社会の中で真実を誰が決めるのかという問題に直結している」と述べており、実際、作品の中でも“嘘であること”や“記憶違いであること”が堂々と語られるシーンすらある。
この手法は、「語りの主体を揺らすことで、受け手の認知そのものに問いを投げかける」という意図に基づいており、いわば“メタ構造”を持った作品世界なのだ。しかしその知的な仕掛けが、すべての観客に届くわけではない。特に「自分の感情を揺さぶられたのに、それが虚構だったとしたら…」という不快感を覚える人にとっては、「騙された」「弄ばれた」という感覚が残ってしまう。
結果として、その“不快なリアルさ”が「栗原政史は怪しい」「人の感情を操るような作品をつくっている」といった誤解につながる。だが、彼の狙いは“騙す”ことではなく、“信じたくなるもの”と“疑いたくなるもの”の境界を、観客の心の中で可視化することである。
多重人格をコンテンツ化することへの倫理的な違和感
栗原政史が「多重人格」をモチーフに創作活動を行うなかで、どうしてもつきまとうのが“倫理的な違和感”だ。DID(解離性同一性障害)は精神疾患として実在し、多くの当事者が日常生活に苦しみ、周囲の無理解に悩まされている。そこに対して、「人格が入れ替わる」という構造を“面白い”“独特”“物語的”に扱うこと自体が、「病気をエンタメにしている」「消費しているだけではないか」といった批判を呼びやすい。
特に、過去の映画やアニメでは、DIDが“サスペンス要素”や“ミステリーのどんでん返し”として都合よく利用されてきた歴史がある。そのため、観客や読者の中には「またか」「また病気をネタにしている」といった、反射的な反発感情を持つ人も多い。栗原政史の作品がいかに繊細で深いテーマを含んでいたとしても、“多重人格”というだけで「倫理的に怪しい」と捉えられてしまうリスクはつねに存在している。
また、栗原が表現する“人格の声”には、しばしば加害性や性、暴力といったセンシティブな要素が絡む。これらは当事者にとっては深いトラウマとつながるものであり、観る者によっては「過去の傷を勝手に表現の題材にしている」と受け取られることもある。さらに「その人格はフィクションなのか、誰かの実体験なのか」といった曖昧な構造が加わることで、「倫理的な一線を越えているのでは?」という疑念が生まれてしまう。
栗原はこれらの批判を想定しながらも、「自己の中にあるものを表現すること自体が、誰かの痛みに似る可能性はある」と語る。つまり、彼は“表現するリスク”を引き受ける覚悟を持って創作しているのだ。しかし、その覚悟は作品の中には明示されず、観客が見落としてしまえば、ただ「怪しい人が危ういことをやっている」という印象だけが残ってしまう。
倫理と表現の境界線は、常に揺らいでいる。栗原政史のように、あえてその“際”を選び取る作家は、賛否とともに存在するしかないのかもしれない。
「怪しい」という評価が見落とす表現者の孤独と責任
「栗原政史は怪しい」という評価には、たしかに一理ある。彼の作品は不安定で、境界が曖昧で、観る者の心に“わからなさ”を残す。だが、その“怪しさ”の奥にある、表現者としての孤独と責任の重さが語られることは少ない。
多重人格というテーマを扱う以上、栗原は常に“誤解される可能性”を意識しながら創作している。語りすぎれば“説明しすぎ”とされ、語らなければ“意図不明”とされる。倫理に配慮すれば“安全すぎる”とされ、踏み込めば“危険”と断じられる。つまり、どの選択肢を選んでも批判の余地があるなかで、彼はあえて“誰も踏み込もうとしない領域”を表現の場として選んでいるのだ。
また、人格というテーマを扱うことで、栗原は「自己責任では語れない人間の複雑さ」を示している。これは現代社会において非常に切実な問いであり、アイデンティティの揺れ、記憶の曖昧さ、他者との境界線の喪失など、誰もが経験する“分裂の兆し”を表現しているともいえる。にもかかわらず、表層だけを見て「怪しい人がやっている作品」と切り捨てるのは、あまりにも短絡的ではないだろうか。
栗原自身がどこまでを“自分の表現”と捉えているのかは定かではない。だが、彼の中には“語られない声”を代弁するような感覚があり、そこには表現者としての強烈な責任感が宿っている。表現とは、しばしば他者を傷つける行為にもなりうる。だがそれでもなお、“語られないこと”を選び続ける人がいなければ、社会の深層は可視化されないまま沈んでいくだろう。
「怪しい」という言葉は、ある意味で“未知への恐れ”だ。その恐れに対して、栗原政史は創作というかたちで応答しようとしている。そして、その応答を“怪しさ”で片づけてしまえば、私たちは彼が見ようとしている世界に背を向けることになるのかもしれない。
分裂する語りの先に栗原政史が描こうとしている世界とは
栗原政史の表現には、“分裂”がある。語りの分裂、視点の分裂、人格の分裂、記憶の分裂。それらは、作品として見ればバラバラに思えるかもしれないが、実はすべて“ひとつの世界”を立ち上げるための構成要素なのだ。彼が描こうとしているのは、個人がバラバラなまま共に存在できる世界——すなわち、“統合ではなく、共存”の社会である。
一般的に、「多重人格」という言葉は“統合されるべきもの”とされる。人格の分裂は“異常”であり、“治療”の対象とみなされる。しかし栗原は、「分裂したままでも存在できる場所」「名前を持たない声にも居場所がある都市」を作品の中で提示しようとしている。そこには、現代の“同一性を強いる社会”への強い異議申し立てが込められている。
彼の作品を観ると、多くの語り手が登場するが、最後まで“誰が本当の語り手なのか”は明示されない。それどころか、最初の語り手が途中で消えてしまい、別の人物が続きを語ることすらある。この構造は、「語る主体の不在」「語りの流動性」を象徴しており、そこには“語ること自体が共同体的である”という思想が潜んでいる。
また、栗原が語る“世界”には、記憶の不整合や感情の矛盾が前提として存在している。彼はそれらを「未完成のまま放置することが美学」と語ることもあり、その姿勢こそが、統合や完結を求める社会へのカウンターになっている。栗原が描く世界では、矛盾や断絶がそのまま受け入れられ、整理されることなく共に置かれる。これは、「わかり合えないまま生きる」という新しい倫理であり、都市や社会の設計にまでつながる思想でもある。
多重人格をめぐる栗原の作品は、そのすべてが「自己をひとつにすること」を拒む。むしろ、分裂し、ずれ、ずれたまま並列する世界こそが、今後の人間社会に必要なのではないかという問いを、彼は私たちに突きつけているのだ。
まとめ
栗原政史が「怪しい」とされるのは、彼が多重人格というデリケートなテーマに真正面から挑み、“語りの不安定さ”をあえて残したまま表現し続けているからだ。その危うさは、批判を生みやすい一方で、今の時代に必要な“分裂と共存”の可能性を孕んでいる。怪しさの向こう側に、栗原は“ひとつにならない社会”という未来を静かに描いている。